今回紹介する裁判例(東京地裁令和5年3月7日 事件番号:令3(ワ)26762号)は、今後も起こりそうな事件です。
この裁判の概要としては、まず、原告(個人)が被告(三菱ケミカル株式会社、三菱ケミカルインフラテック株式会社)に対して特許権侵害(特許第6350985号)で提訴(本訴)したものの、被告が本件特許は原告の冒認出願によりされたとして反訴しました。
本事件の原告(特許権者(出願人)と発明者は同一の個人)は、昭和39年から平成12年1月15日まで、被告企業である三菱ケミカル(社名変更前の三菱レイヨン時に日東化学を承継)において勤務しており、中央研究所の研究部長を務めていたとのことです。そして原告は、退職から14年後の平成26年7月2日に本件特許の出願を行い、平成30年6月15日に設定登録を受けています。
本事件において被告は、以下のように、本件特許発明は日東化学の従業員が完成させた本件硬化剤発明とが同一であるとして、本件特許発明は特許を受ける権利を有しない者による出願であるとして反訴を行っています。
ア 本件特許発明は、日東化学の従業員であったBⅰ及びCⅰが平成3年10月に完成させたものである。すなわち、Bⅰ及びCⅰは、GS硬化剤の開発に関し、平成3年10月度月報において、「エヌタイトGS」という銘柄の処方(以下、同処方により特定される硬化剤に係る発明を「本件硬化剤発明」という。)を完成させた。本件特許発明と本件硬化剤発明とは、一部の構成要件において形式的な相違があるものの、これらは、以下のとおり、いずれも実質的な相違点ではなく、両発明の同一性を損なうものではない。・・・イ 原告は、日東化学の研究所において、Bⅰ及びCⅰの上司に当たる地位にあり、両名が完成させた本件特許発明を同人らから直接又はその他の日東化学の書類や従業員を介して知得したにすぎず、本件特許発明の発明者ではない。そして、Bⅰ及びCⅰが完成させた本件特許発明に関する特許を受ける権利は、本件職務発明取扱規程に従って日東化学に承継されたのであり、原告がこれを譲り受けたことはない。ウ 仮に本件特許発明と本件硬化剤発明が同一でないとしても、本件硬化剤発明をその範囲に含む本件特許発明は、本件硬化剤発明に関する日東化学の営業秘密(●(省略)●)を利用した発明であることは明らかである。これに対し、原告は、日東化学従業員として、就業規則及び本件誓約書に基づき、日東化学及び三菱レイヨンの営業秘密を退職後も自己の目的に利用したり第三者に開示したりしてはならない義務を負っていた。そのような原告が、被告らに権利を行使する目的で本件特許発明について特許出願をし、本件特許権を取得したことは、就業規則及び本件誓約書において禁じられた「自己の目的」への利用そのものである上、特許出願に伴う公開を通じた第三者への開示にも該当する。このように、本件特許発明が本件硬化剤発明に関する日東化学の営業秘密を利用してされたものである以上、原告は、本件特許発明について、特許を受ける権利を有しない。また、原告の秘密保持義務違反によってされた利用発明である本件特許発明についての特許を受ける権利は、条理上、本件硬化剤発明に関する営業秘密の保有者であった日東化学、ひいてはその権利義務を承継した被告三菱ケミカルに帰属するというべきである。
しかしながら裁判所は、原告の本件特許発明と被告の営業秘密(本件硬化剤発明)とを対比してこれらが同一でないとしたうえで、本件特許は冒認出願ではない、として被告の主張を認めませんでした。
なお、被告は、原告が日東化学の研究所において、本件硬化剤発明を完成させたBⅰ及びCⅰの上司に当たる地位にあり、両名が完成させた本件硬化剤発明と同一の本件特許発明を知得したにすぎないと主張したものの、裁判所は、これも下記のように認めませんでした。
・・・原告は、遅くとも平成3年初め頃以降、日東化学の中央研究所の研究部長を務めており(前提事実(1)ア)、平成3年4月度月報及び同年10月度月報には、原告の姓を示す「Aⅰ」との印が押されていることが認められる(乙12、22)。そうすると、原告は、平成3年当時、Bⅰらによる本件硬化剤発明に係る報告内容を把握し得る立場にあったとはいえるが、本件硬化剤発明は、複数の含有物を異なる割合で混合するというものであるから、上記各月報を一瞥しただけでその内容を完全に記憶することは必ずしも容易ではないと考えられる。そして、本件証拠上、原告が、上記各月報を具体的にどのような態様で閲読したのかは明らかでなく、Bⅰらによる研究内容をどの程度具体的に把握していたのかも明らかではない。したがって、原告が本件特許発明をBⅰらから知得したと認めることはできない。
また、被告は、本件特許発明は本件硬化剤発明に関する日東化学の営業秘密を利用した発明であるから、原告は本件特許発明について特許を受ける権利を有しないとも主張しました。しかしながら、裁判所はこの主張も以下のように認めませんでした。
・・・原告は、従前、日東化学及び三菱レイヨンにおいて、地盤安定化剤、床用石膏プラスター組成物の研究開発に携わっており、その過程で、自らが発明者又は研究従事者として、①珪酸ソーダ水溶液からなるA液と、石灰、Ⅱ型無水石膏及び界面活性剤の混合物の水性スラリーからなるB液とを混合した薬液を地盤中に注入して硬化させる地盤安定化法(甲17)、②フッ酸副生無水石膏に、苛性カリ(水酸化カリウム)、苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)、消石灰、炭酸カルシウム等のアルカリ性物質を添加して中和すること(乙48、49)、③●(省略)●といった、本件特許発明を構成する具体的な技術事項を把握するに至っていたと認められる。しかし、上記①及び②に係る技術事項は、特許公報等により公開されているものであるし、本件証拠上、本件特許発明を構成するその余の技術事項が日東化学及び三菱レイヨンの営業秘密に属するものと認めることができないから、原告が、三菱レイヨンを退職した後に、公知の刊行物等を参照しつつ、日東化学及び三菱レイヨンの営業秘密に属しない技術事項を組み合わせるなどして本件特許発明を着想し、それを具体化して本件特許発明を完成することができたとしても、直ちに不自然であるとはいえない。
なお、原告による特許権侵害という主張は、被告の製品(GS硬化剤等)は本件特許の技術的範囲に属さないとして認められませんでした。このように、原告による本訴、被告による反訴は共に棄却されました。
このように、前職企業を退職した従業員が、転職先等で前職企業における職務内容と同様の発明を行うことは当然あり得ることだと思います(本事件では特許権の権利者と発明者とが同一の個人であるため、原告が他企業に転職していないのかもしれませんが)。
そうすると、本事件のように前職企業は、転職した発明者が自社の営業秘密を持ち出して転職先で特許出願をしたのではないかという疑念が生じさせる可能性あるでしょう。特に特許出願の発明者は明確であるため、自社の元従業員が転職先企業で特許出願をしたか否かが容易に判断でき、かつ特許出願に係る技術内容が元従業員の職務内容と同様であるかも容易に判断できます。
すなわち、転職先企業は、転職してきた者(転入者)が前職企業の営業秘密に基づいて特許出願をしたのではないかと疑念を持たれる立場となります。万が一、前職企業の営業秘密に基づいて特許出願をしたとなれば、転職先企業による営業秘密侵害であり、民事的、刑事的責任を負う可能性が生じます。
転職先企業では、このような事態に陥ることは避けなければなりません。このため、転職先企業(の知財部)は、発明がどのようにしてなされたかの確認が必要となるでしょう。例えば、発明の着想から具体化までに至る資料(研究ノート)を確認し、当該発明が自社においてなされたことを確認することが必要です。特に、転入間もない従業員に対しては、前職企業の営業秘密が混在していないことを十分に確認するべきでしょう。
また、万が一、本事件のように前職企業から発明の成立過程について疑念を持たれた場合に反論できるように研究ノート等や各種データを保存する必要があるでしょう。
なお、不正競争防止法第6条では具体的態様の明示義務として、以下のように規定されています。
第六条 不正競争による営業上の利益の侵害に係る訴訟において、不正競争によって営業上の利益を侵害され、又は侵害されるおそれがあると主張する者が侵害の行為を組成したものとして主張する物又は方法の具体的態様を否認するときは、相手方は、自己の行為の具体的態様を明らかにしなければならない。ただし、相手方において明らかにすることができない相当の理由があるときは、この限りでない。
この規定によると、例えば、営業秘密の不正使用が疑われる製品や物の製造方法等において、営業秘密保有者は当該製品や製造方法等の具体的態様を明らかにすることを求めることができます。これにより、当該製品や製造方法等に自社の営業秘密が使用されているか否かが明確になることが期待されます。一方で、この規定は物や方法を対象としており、特許に係る発明の成立過程等を明らかにすることを求めることはできないと解されます。
しかしながら、上記のように、自社からの転職者が転職先等で自社の営業秘密を使用して特許出願等を行う可能性があることを鑑みると、特許に係る発明の成立過程を明らかにすることを求める規定が設けられても良いのではないかと思います。
弁理士による営業秘密関連情報の発信